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更新日:2022年4月1日
いにしえの伝統が多く残る宇陀市には日本最古級の名を持つ寺社・石像や古式ゆかしい厳粛な祀事や荒ぶる神を思わす勇壮な神事があります。
各社寺や地域の行事等の詳細につきましては現地でしか確認できない場合がございますのでご注意下さい。
国宝・重要文化財・県指定文化財
女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名があり、現在は石楠花(しゃくなげ)の名所としても知られています。
奈良時代末期の宝亀(ほうき)年間(770年~781年)、東宮の山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延命の祈祷をしたところ、龍神の力でみごとに回復したので、興福寺の僧・賢璟(けんけい)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったといわれています。
現存の室生寺の堂塔のうち、創建頃(9世紀前半)にまで遡ると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われます。
室生寺の四至には「門」を設けており、田口の長楽寺を東門、大野の大野寺を西門、赤埴の佛隆寺を南門、名張の丈六寺を北門としています。
室生寺は長らく興福寺との関係がありましたが、元禄7年(1694)、真言僧・隆光(りゅうこう)が興福寺に室生寺の分離を要求し、元禄11年(1698)には興福寺から独立して真言宗寺院となりました。その後、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)の寄進によって山内の堂塔が修理されています。昭和39年(1964)には、真言宗豊山(ぶざん)派より独立し、真言宗室生寺派の大本山となり、現在に至っています。
境内の建物や仏像の多くは国宝や重要文化財等に指定されており、なかでも国宝の五重塔は屋外の五重塔では日本最小として知られています。
真言宗室生寺派の末寺で、室生寺の西門ともいわれています。宇陀川岸の自然岩に刻まれた石仏(弥勒摩崖仏)とともに境内は史跡に指定され、枝垂桜の名所ともなっています。
本尊の木造地蔵菩薩立像(重要文化財、鎌倉時代)は、無実の娘を火あぶりの刑から救ったという伝説にちなみ「身代わり地蔵」とも呼ばれています。
石仏は鎌倉時代の初期(承元元年/1207)に後鳥羽上皇の祈願で造立が始まり、承元3年(1209)に後鳥羽上皇が石仏開眼供養のため当地を訪れています。この石仏は、京都の笠置寺の本尊弥勒磨崖仏を模したものといわれています。
融通念仏宗の宗祐寺の末寺で、阿弥陀如来立像を本尊としています。天正8年(1580)に西晃(さいこう)によって創建されたといわれています。
境内には樹齢300年ともいわれている枝垂桜があります。見事な桜花は、周辺の景観とともに人々を魅了します。
県指定文化財 渓流にある背後の岩窟を龍王の棲む「龍穴」として祭祀したことをその起源としています。「龍穴」は平安時代前期以降、朝廷から祈雨神として信仰されるようになり、古記録にも「室生龍穴」などと記されています。現在、この岩窟は「吉祥龍穴(妙吉祥龍穴)」とよばれています。 この「龍穴」信仰に基づき創建された室生寺とは密接な関係があり、古代から一体的に信仰されています。 現在の春日造りの本殿は、奈良の春日大社若宮の社殿を江戸時代の寛文11年(1671)に移築されたもので、奈良県指定文化財となっています。 |
崇神(すじん)天皇が大和国の疫病(えきびょう)を鎮めるため、赤盾(たて)八枚と赤矛(ほこ)八竿(さお)を使って墨坂神、黒盾八枚と黒矛八竿を使って大坂(おおさか)神を祀ったところ、疫病がおさまったと『日本書紀』にあります。大和の東方を護る神として墨坂神を祀ったのが墨坂神社のはじまりです。このことから、近年は「健康の神様」として多くの方々が訪れるようになっています。
神社は西峠の「天ノ森(てんのもり)」にありましたが、室町時代(文安6年・1449年)に現在の場所に遷っています。毎年11月2日・3日の秋祭りには、神社と西峠の間で渡御行列(お渡り)があります。
現在の春日造の本殿は、奈良の春日大社の本殿を江戸時代末の元治(げんじ)元年(1864)に移築されたものです。
武角身命(たけつのみのみこと)を祭神とする八咫烏神社は、『続日本紀』の記載から慶雲(きょううん)2年(705)の創祀と考えられています。
江戸時代(文政年間・1818~1830)には、これまで石神殿であったものが春日造の社殿となりました。その後、昭和15年(1940)の神武天皇の即位を記念した紀元二千六百年事業にともなって、社域を拡張・整備し、現在に至っています。
『古事記』、『日本書紀』によると神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(建角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。
八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主(かものあがたぬし)が有力となってからは、賀茂氏が祖とする建角身命が八咫烏となったようです。
東京高等師範学校(現在の筑波大学)が中心となって、大正10(1921)年、大日本蹴球協会が設立(日本サッカー協会の前身)され、昭和6年(1931)には三足烏・八咫烏をシンボルマークとしていますが、これは中国の陽鳥(日の神・太陽のシンボル)としての考え方や神武伝承(神武天皇を大和へ導き、勝利に貢献)によるものです。近年は、スポーツの勝利や安全祈願の神社として多くの方々が訪れるようになっています。
重要文化財
融通念仏宗の寺院です。寺伝では、敏達(びだつ)天皇10年(581)の開基、永禄期(16世紀中頃)に織田信長の家臣の服部時直が出家して宗祐(そうゆう)と名乗り、寺を復興したとあります。
現在、寺の所有となっている木造多聞天(たもんてん)立像(平安時代)と絹本著色仏涅槃図(けんぼんちゃくしょくぶつねはんず・鎌倉時代)は、ともに重要文化財に指定されています。
本堂前の梅ノ木のそばには、松尾芭蕉の「梅が香にのっと日の出る山路かな」の句碑があります。
真言宗御室派(おむろは)の寺院で十一面観音菩薩立像を本尊としています。寺伝では推古朝(7世紀)の創建いわれています。
江戸時代、織田家宇陀松山藩の歴代藩主の信仰が篤く、毘沙門堂(びしゃもんどう)は4代藩主の織田信武(のぶたけ)によって建てられたものです。また、境内の仏足石(ぶっそくせき)は、その類例が少なく貴重なものです。
神明造(しんめいづくり)の社殿には、天照大神(あまてらすおおみかみ)などが祀られています。
『日本書紀』には垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の鎮座地を求めて各地を巡行したとあります。平安時代の『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』や鎌倉時代の『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』には、天照大神を祀った場所のひとつに「宇太乃阿貴宮(うだのあきのみや)」が記されており、これが阿紀神社のはじまりとされ、「元伊勢(もといせ)」ともよばれています。
境内に残る能舞台では、江戸時代の寛文年間から大正時代頃まで能が演じられていました。平成4年からはこの能舞台で薪能が再開され、平成7年には「あきの蛍能」として開催されています。
国宝・重要文化財
第一殿、第二殿、第三殿からなる本殿(国宝/鎌倉時代)には、天水分神(あめのみくまりかみ)、速秋津比古神(はやあきつひこかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)が祀られています。
社伝では、崇神(すじん)天皇の時代にはじまるといわれています。永禄3年(1560)写しの『玉岡水分縁起(たまおかみくまりえんぎ)』によると、大和国宇陀郡の水分大明神は天照大神の分神で、垂仁天皇の時代に神託によって社殿を構えたと記しています。
末社の春日神社本殿(重要文化財/室町時代末)には天児屋根命(あめのこやねのみこと)、宗像(むなかた)神社本殿(重要文化財/室町時代末)には市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
高野山真言宗の寺院で、阿弥陀如来坐像を本尊としています。平井大師山とよばれている山内には、四国八十八ヶ所霊場の写し霊場となる石仏群があり、石仏を巡礼できるようになっています。
石仏は、江戸時代末(嘉永5年~安政2年/1852~1855)に石工・丹波佐吉(たんばのさきち・村上照信)とその弟子たちによって刻まれたものです。各石仏には四国八十八ヶ所霊場の各本尊と同じ本尊を彫り出し、本尊名・霊場番号・霊場名・寄進者名などを刻んでいます。これらは、平井太師山石仏群ともよばれています。
天然記念物
春日造の本殿には、木花咲耶(このはなさくや)姫が祀られています。
この神社周辺には神武東遷伝承があります。そのひとつが境内の大きな「八ツ房スギ」(国天然記念物)です。神武天皇が大和での戦いに勝利するようにとの願いを込めて植えたともいわれています。
背後の「高かき」という小字がある山頂は、神武東遷伝承のひとつ、「菟田高城(うだのたかぎ)」伝承地となっています。戦いに際して、神武天皇が陣を置いたところといわれています。
日張山(ひばりやま)の中腹にたたずむ浄土宗の寺院。中将姫ゆかりの地として知られ、中将姫19歳の姿を模した法如坐像を本尊としています。
奈良時代、右大臣藤原豊成の娘・中将姫にまつわる、哀れにもゆかしい物語を今日に伝え、父との不思議な再会からこの寺は別名「再会寺」ともいわれ、「逢いたい人と夢叶う寺」として人々から親しまれています。
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