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伝承地

八咫烏(やたがらす)

八咫烏神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏です。八咫烏、中国では陽鳥(ようちょう、日の神・太陽のシンボル)と考えられています。八咫烏の伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていましたが、8世紀以降、山城の賀茂県主(かものあがたぬし)が有力となってからは、賀茂氏の祖である武角身命(たけつのみののみこと、建角身命)が八咫烏といわれるようになりました。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、慶雲2年(705年)に八咫烏の社を宇陀郡に置かれたことが記されています。飛鳥時代末の慶雲(けいうん)2年(705)にこの宇陀の地に祀られたとあり、その創祀はとても古いものです。現在、宇陀市榛原高塚には、八咫烏神社があります。
また、八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークにもなっています。昭和6年(1931)に決められたものですが、中国の陽鳥としての考え方や神武天皇を大和へ導き、勝利に貢献したことから、シンボルとなったのでしょう。

菟田下県(うだのしもつあがた)

菟田下県『古事記』では、「踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき」、『日本書紀』では、「遂に菟田下県に達る。因りて其の至りましし処を号けて、菟田の穿邑と曰う。」とあります。
遺跡の分布状況や文献等から、菟田下県は、伊那佐山(榛原)と西山岳(大宇陀)とを結ぶ東西ラインより南側、現在の菟田野と大宇陀・榛原の南半分と考えられています。その北側は、菟田上県(うだのかみつあがた)となっています。

菟田の穿邑(うかちむら)

菟田の穿邑顕彰碑菟田下県のなかにあるひとつの邑。現在の地名の「宇賀志」は、穿邑の「穿」に由来しています。「宇賀志」は、かつての「穿邑」の中心地だったのでしょう。

兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)

宇太水分神社菟田下県の豪族。『古事記』では兄宇迦斯、弟宇迦斯、『日本書紀』では兄猾、弟猾となっています。古墳時代にこの菟田下県を治める豪族が「エウカシ・オトウカシ」となって記紀に残ったのでしょう。
エウカシは、神武天皇に逆らい、亡くなってしまいますが、オトウカシは、神武天皇に従い、やがて、菟田県主となりました。近代でいう宇陀郡長です。
また、オトウカシは、水を司る主水部(もひとりべ)の祖ともなっており、彼が本拠としたところには、今、宇太水分神社が祀られています。

訶夫羅前(かぶらざき)

神武天皇は、八咫烏をエウカシ・オトウカシの所へ派遣して、服従するように伝えたところ、オトウカシは、この命令にすぐに従ったとあります。一方、エウカシは鳴鏑(なりかぶら)という矢を撃って八咫烏を追い返しました。この矢が落ちたところが訶夫羅前といわれています。その詳しい場所は不明ですが、穿邑からそれほど遠くないところでしょう。

大殿

大殿伝承地神武天皇に反抗的なエウカシは、大殿という大きな建物を建てて、その中に押機という罠をつくりました。ここに神武天皇一行を誘き寄せてやっつけようというのです。しかし、結局、エウカシがこの中に入れられてしまい、彼は押しつぶされて亡くなってしまいました。
菟田野宇賀志に「ヲドノ」という小字があり、そこに「大殿」があったとされています。

菟田の血原

菟田の血原伝承地(宇賀志)エウカシが大殿へ入ったとたん、押機という罠が天井から落ちてきて、彼は押しつぶされて亡くなってしまいました。この後、彼の遺体は引きずり出され、切り刻まれてしまいました。彼の血は流れ、周辺を赤く染めてしまい、血で赤くなったところが「菟田の血原」と呼ばれるようになったと言われています。
「ヲドノ」の下には、宇賀志川が流れており、このあたりが「菟田の血原」だったと考えられています。血の赤は、水銀関係しているともいわれています。
この宇賀志川には、血原橋が架かり、その横には宇迦斯神(うかしのかみ)を祭神とする宇賀(うが)神社が鎮座しています。

菟田の高城(たかぎ)

菟田の髙城顕彰碑単に「高いところにある城」とする説と、実際の宇陀の地名に由来する説とがあります。後者は具体的には、菟田野佐倉の「高かき」という小字がある山頂、または榛原内牧にある高城岳を「菟田(宇陀)の高城」にあてる説です。地形や地理から考えると、菟田野佐倉の山を「菟田(宇陀)の高城」にあてるのが有力な説となっています。

菟田の高倉山

高見山神武天皇が登ったという「高倉山」は、大宇陀守道と大東との間にある高倉山にあてる説が有力ですが、東吉野村の高見山とする説もあります。
これらのほかに古代の宇陀を一望できる山としては、大宇陀の古城山があります。中世には秋山城、近世初頭には宇陀松山城となった小高い山です。もしかすると、高倉山は、ここだったのかもしれません。一度、山頂から宇陀をご覧ください。

国見丘

八十梟帥(やそたける)がいた「国見丘」には諸説がありますが、桜井市と宇陀市との境にそびえる山とも考えられています。

女坂(めさか)

桜井市粟原と宇陀市榛原笠間との境界周辺と考えられています。古くは大峠をこれにあてる説もあります。

男坂(おさか)

大宇陀にある半坂(半坂峠)にあてる説があります。「男坂」が「ナンサカ」となり、やがて「ハンサカ」となったともいわれています。

墨坂

墨坂神社榛原萩原にある坂、かつて墨坂神社が鎮座した場所の周辺と考えられており、現在も「墨坂」という地名が残っています。

磐余(いわれ)

一般に桜井市南西部から橿原市南東部の地域と考えられており、今も「磐余」という地名が残っています。
 また、一方では、大宇陀岩室周辺にもこの伝承地があります。

丹生(にう)の川上

諸説がありますが、丹生川上中社(東吉野村小)説が有力となっています。

菟田川の朝原

丹生神社宇陀市榛原雨師の丹生神社周辺とする説があります。

伊那瑳(いなさ)の山

穿邑から見た伊那佐山宇陀での戦いのなかで神武天皇は、「楯(たた)並(な)めて 伊那瑳の山の 木の間(ま)ゆも い行きまもらひ 戦えば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助け来ね」とうたいました。「伊那瑳の山」とは、宇陀市榛原山路を中心にそびえる標高約637mの伊那佐山と考えられています。伊那佐山(いなさやま)は、穿邑から正面に見える山です。山頂には式内社の都賀那岐(つがなぎ)神社が鎮座しています。

猛邑・猛田県主

菟田県即位後、神武天皇は、論功行賞を行います。オトウカシには、猛田邑(てけだのむら)を与え、猛田県主としました。猛田とはどこなのでしょうか。
本来、盂田邑(うだのむら、宇陀邑)、盂田県主(うだのあがたぬし、宇陀県主)であったものが、筆写の過程で「犭」(けものへん)が加えられ、「猛」となったと考えられています。オトウカシには、菟田邑が与えられ、菟田県主となったのです。オトウカシは、現在の菟田野、榛原、大宇陀の各地区を治めることとなりました。

菟田主水部(うだのもひとりべ)

宇太水分神社オトウカシは、水を司る菟田主水部の祖ともなっており、彼が本拠としたところには、今、宇太水分神社が祀られています。

鳥見山(とみやま)

鳥見山展望台『日本書紀』神武天皇4年条に「乃(すなわ)ち霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、其地(そこ)を号(なづ)けて、上小野(かみつおの)の榛原、下小野(しもつおの)の榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ」とあります。
神武天皇は、即位後、鳥見山で祭祀を行いました。桜井市にある鳥見山説と宇陀市にある鳥見山説とがありますが、後にある「上小野の榛原、下小野の榛原」という地名との関係を考えると宇陀市の鳥見山説が有力でないでしょうか。

上小野の榛原、下小野の榛原

小野の榛原遠景鳥見山の麓にある地名。「墾原(はりはら)」が「榛原」となったとも考えられています。
宇陀市にある鳥見山の麓には、「榛原」という地名が残っており、「上小野の榛原」とは、玉立(とうだち)・小鹿野(おがの)・西峠周辺、「下小野の榛原」とは萩原周辺と考えられています。

お問い合わせ

教育委員会事務局文化財課 

宇陀市榛原下井足17番地の3

電話番号:0745-82-3976/IP電話:0745-88-9365

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