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大和宇陀神武天皇御聖跡御図
大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵

「大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵」は、昭和13年に前貴族院議員津村重舎氏の懇嘱により、久留島武彦氏、松尾四郎氏の指導のもと、吉田初三郎が完成させたものです。大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵展示状況

もともとは、合併前の旧大宇陀町の時に、松山町「宇陀信」から寄贈を受けたもので、現在、宇陀市役所市長応接室で収蔵しています。
現在、多くの方々にご覧いただくため御図絵の複製版を作成し、庁舎1階介護福祉課前の壁面に展示しています。

また、同種の宇陀郡内の神武天皇聖跡案内図もあり、そちらは国会図書館に収蔵されています。

「大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵」大きなサイズで見る(JPG:5,379KB)

制作の経緯

この神武天皇聖跡案内図は、津村重舎(現在のツムラ創業者)が郷土・宇陀郡の「神武聖跡」を顕彰するために吉田初三郎氏に制作を依頼し、昭和13年(1938)に完成したものです。この御図絵は、『古事記』、『日本書紀』に登場してくる神武天皇ゆかりの場所を当時の地図上に重ねあわせたもので、斜め上空から一望できるように描かれており、昭和13年当時の宇陀地域の様子も知ることができます。また、この御図絵には、その図絵の中に古代の宇陀、近代の宇陀が凝縮されており、独特の画法から、遠く九州や富士山までが描かれています。

神武天皇東征の物語

『古事記』、『日本書紀』によると、日向(現在の宮崎県)から大和(現在の奈良県)へと向かった神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)(のちの神武天皇)一行は、瀬戸内海を経て生駒山側から大和へ入ろうとしましたが、長髄彦(ながすねひこ)の反撃を受け、失敗してしまいます。

形勢が不利とみた倭伊波禮毘古命は、原因を自分達が太陽のある東へ向いて攻撃しているためと考え、紀伊半島を迂回して、熊野から吉野、宇陀を経て、奈良盆地へ入る作戦に変更しました。途中、八咫烏(やたがらす)の道案内で吉野川をさかのぼり、佐倉峠を越えて宇陀へとやってきます。そこで一行は、宇陀の豪族の一人・オトウカシを味方につけ、宇陀やその周辺で戦いを繰り広げ、これに勝利し、ようやく宇陀から奈良盆地に入ることができたのです。

こうして、神倭伊波禮毘古命は畝傍の橿原宮で即位し、ついに「神武天皇」となり、日本書紀によると皇祖天神(みのやのあまつかみ)を祀るため、鳥見山中に霊畤をたてたといわれています。

また、論功行賞として弟穿(オトウカシ)は、宇陀郡を治めることとなり、その範囲がこの御図絵にも表現されています。

神武伝承と宇陀の伝説について詳細を見る

津村重舎とは

津村重舎(つむらじゅうしゃ)(1871年8月28日~1941年4月28日)

大和国(奈良県)出身。1893年に中将湯本舗津村順天堂(現ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。
1925年から1936年まで貴族院議員を務めた。実の兄、山田安民は信天堂山田安民薬房(現ロート製薬の前身)の創業者。

作者、吉田初三郎とは

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)(1884~1955)。京都生まれ

氏は大正から昭和に活躍した絵地図作者で、独特な鳥瞰(ちょうかん)図法により多くの絵地図を作り、「大正の広重」ともいわれている。

10歳で友禅図案師に奉公し、25歳のとき鹿子木孟郎に師事して洋画を学ぶが、鹿子木のすすめで商業美術に転向する。

1914年、最初の鳥瞰図である『京阪電車御案内』が、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受ける。

大正から昭和にかけて日本の観光ブームによって初三郎の鳥瞰図の人気は高まり、大正名所図絵社を設立する。その顧客は国内の交通行政を所轄し、観光事業にも強い影響力を特っていた鉄道省を筆頭に、鉄道会社やバス会牡、船会社いった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などであった。

高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けた。しかし、第二次世界大戦が進む中、初三郎式鳥瞰図は港湾等の軍事機密が見て取れ、地政学上好ましくないという軍部の判断の下、不遇の時代を送る。

戦後、1999年、堺市博物館で大規模な回顧展が開かれたのを契機として各地の博物館で展覧会が開かれ、再評価されるようになった。

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