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『古事記』『日本書紀』『万葉集』と宇陀市(上)

宇陀市では、平成24年4月から(現在も連載中)市広報紙に宇陀市にまつわるお話を連載してきました。

ここでは、その内容を再編集し、改めて宇陀市における史実紹介としてみなさんにお伝えします。

諸説もろもろありますでしょうが、宇陀市における歴史ロマンをみなさんとともに味わえたら幸いです。

―宇陀市教育委員会

目次

『古事記』と『日本書紀』

「神武天皇」、宇陀へ

菟田下県の穿邑

「大殿」と「菟田の血原」

菟田(宇陀)の高城

神武天皇、高倉山に登る

オトウカシの活躍

神武天皇の即位

菟田県主の誕生

 


 

『古事記』と『日本書紀』

平城京の遷都(せんと)(和銅3年・710)から1300年経った平成22年、奈良県では、遷都を記念して様々な行事が開催されました。そして平成24年、2012年は、『古事記(こじき)』が完成して1300年。『古事記』ゆかりの地では、これにちなんだ催しが始まっています。奈良県内でも今後、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』に関係した諸行事が開催されます。

宇陀市内にもこの『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』ゆかりの地がいくつもあり、これからご案内していく予定です。その前にまず、『古事記』と『日本書紀』についてご紹介しましょう。

『古事記』とは、現存する最古の書物です。天武(てんむ)天皇が『紀(ていき)』(皇室の記録)と『旧辞(きゅうじ)』(神話・伝承・歌謡)を研究して、正しいことを後世に伝えるよう命じ、これをもって編さん事業が始まったと『古事記』には、記されています。稗田阿礼(ひえだのあれ)が語り伝えたものを太安万侶(おおのやすまろ)がまとめ、和銅5年(712)に完成しました。

『古事記』は、3巻で構成され、上巻は天地のはじめから天孫降臨(てんそんこうりん)前後の神々の物語、中巻は神武(じんむ)天皇から神(おうじん)天皇までの英雄伝説、下巻は仁徳(にんとく)天皇から推古(すいこ)天皇までの物語となっています。中巻の神武天皇の段で宇陀の地が多く登場します。

『日本書紀』とは、最初につくられた勅撰(ちょくせん)(天皇の命令により撰ばれた)の歴史書で、養老4年(720)に完成しました。『日本書紀』天武天皇10年(681)3月17日条に、天武天皇が川嶋皇子・忍壁おさかべ皇子ら12人に『紀』(皇室の記録)と『上古諸事(じょうこしょじ)』(古い諸記録の史実を確定して記録するように命じたことに始まるとあります。『日本書紀』は、神代から持統天皇11年(697)までの記事からなり、本文30巻、系図1巻で構成されています。このうち、系図については、現存していません。

『日本書紀』の編纂にあたっては、『帝紀』・『旧辞』、諸氏族の記録、中国の歴史書、朝鮮の関係記録などが参考にされています。記事には漢籍による修飾もありますが、7世紀までの日本古代史の基本的な文献史料となっています。

『古事記』、『日本書紀』の2種類の歴史書をまとめて、「記紀(きき)」と総称することもあります。

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「神武天皇」、宇陀へ

『古事記(こじき)』、『日本書紀(しょき)』に登場する神武(じんむ)天皇、『古事記』では「神(かむ)倭(やまと)伊波禮(いわれ)毘(ひ)古(この)命(みこと)」、『日本書紀』では「神(かむ)日本(やまと)磐余彦(いわれひこ)天皇」とあります。これから天皇に即位する前の出来事を辿(たど)っていきますが、お馴染みの「神武天皇」と呼んでいくこととします。

さて、この神武天皇、「記紀」によると日向(ひゅうが)(現在の宮崎県)から大和に攻め込む際、瀬戸内海を通過し、大阪の難波津へ軍船を進めたとあります。難波津へ軍船を進めた神武天皇らは、生駒山を越えて大和に攻め込みましたが、長髄彦(ながすねひこ)の反撃を受けました。形勢が不利とみた神武天皇は、原因を自分達が太陽のある東へ向いて攻撃しているためと考え、一旦、退却することとなりました。

退却した神武天皇らは、南下し、紀伊半島を迂回して、熊野に上陸するという作戦に変更しました。しかし、またもや危機に遭ってしまいます。軍全体が眠気に襲われ、行軍がままならなくなってしまったのです。熊野の高倉下(たかくらじ)は、天から降り注ぎ倉に突き刺さったという刀を神武天皇に差し出すと、たちどころに軍は正気を取り戻しました。神武天皇を助けたこの高倉下は、現在、椋下神社(榛原福地)の祭神ともなっています。

この後、神武天皇らは、天(あま)照大神(てらすおおみかみ)(『古事記』では高木大神)によって派遣された八咫(やた)烏(がらす)の導きによって、道に迷うことなく、吉野を経て宇陀へと至ります。『古事記』と『日本書紀』では、その行程が若干、異なりますが、十津川流域をたどって吉野川の河尻(五條市)に達した後、阿陀(五條市)、吉野、国巣(吉野町)を経て、小(東吉野村)から鷲家川をさかのぼり佐倉峠を越え、宇陀へ入ったのでしょう。

道案内をした八咫烏、中国では陽(よう)鳥(ちょう)(日の神・太陽のシンボル)と考えられています。八咫烏の伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていましたが、8世紀以降、山城の賀茂(かもの)県(あがた)主(ぬし)が有力となってからは、賀茂氏の祖である武角(たけつの)身命(みのみこと)(建角身命)が八咫烏といわれるようになりました。榛原高塚にある八咫烏神社は、この武角身命(建角身命)=八咫烏を祭神としています。八咫烏神社は、飛鳥時代末の慶雲(けいうん)2年(705)にこの宇陀の地に祀られたとあり、その創祀はとても古いものです。八咫烏

また、八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークにもなっています。昭和6年(1931)に決められたものですが、中国の陽鳥としての考え方や神武天皇を大和へ導き、勝利に貢献したことから、シンボルとなったのでしょう。

宇陀へ辿りついた神武天皇、そこで天皇は、有力な兄弟に出会うこととなります。

 

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菟田下県の穿邑

神武天皇一行は、八咫烏の導きによって、吉野を経て佐倉峠を越え、宇陀へ入ってきます。『古事記』では、「踏み穿(うか)ち越えて、宇陀に幸でましき」、『日本書紀』では、「遂に菟田下県に達る。因りて其の至りましし処を号(なづ)けて、菟(う)田(だ)の穿邑(うかちのむら)と曰(い)う。」とあります。『古事記』と『日本書紀』では、内容が少々、異なりますが、神武天皇一行は、まず、菟田下県の穿邑というところに着いたことがわかります。

菟田下県は、伊那佐山(榛原)と西山岳(大宇陀)とを結ぶ東西ラインより南側、現在の菟田野と大宇陀・榛原の南半分と考えられています。また、現在の地名の「宇賀(うか)志(し)」は、穿邑の「穿(うかち)」に由来しています。

さて、神武天皇一行が着いた菟田下県には、エウカシとオトウカシ(『古事記』では兄宇迦斯、弟宇迦斯、『日本書紀』では兄猾、弟猾)という豪族がいました。

『古事記』では、神武天皇は、八咫烏をエウカシ・オトウカシの所へ派遣して、服従するように伝えたところ、オトウカシは、この命令にすぐに従ったとあります。一方、エウカシは鳴(なり)鏑(かぶら)という矢を撃って八咫烏を追い返し、反撃の軍を編成しようとしましたが、人数が集まらず、神武天皇に従うと偽りました。空から見た「菟田下県」

『日本書紀』では、オトウカシは、神武天皇の命令にすぐに従いましたが、エウカシは従わなかったとあります。いきなり、宇陀へやって来て「従え!」とは少々、乱暴な行動ですが、菟(う)田(だ)は神武天皇の勢力下に入ることとなりました。

神武天皇に反抗的なエウカシ。大殿(おおとの)という大きな建物を建てて、その中に押機(おし)という罠をつくりました。ここに神武天皇を誘き寄せて討つ計画です。この神武天皇討伐計画がオトウカシの知るところとなり、オトウカシは、この計画を神武天皇に伝えました。

 

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「大殿」と「菟田の血原」

神武天皇に反抗的なエウカシは、大殿(おおとの)という大きな建物を建てて、「大殿」伝承地その中に押機(おし)という罠をつくりました。ここに神武天皇一行を誘き寄せようと考えたのです。しかし、この計画は、すでに神武天皇の耳に入っていました。

神武天皇に仕える道(みちの)臣(おみの)命(みこと)、大(おお)久米(くめの)命(みこと)は、エウカシを呼び出し、「お前が造ったこの大殿に先に入って、神武天皇にお仕えするという証拠を示せ。」などと言って、大刀や弓などの武器で脅してエウカシを大殿の中へと押し入れました。エウカシが大殿へ入ったとたん、押機という罠が天井から落ちてきて、彼は押しつぶされて亡くなってしまいました。自分で作った罠に自分自身が押しつぶされるという不幸な出来事となってしまったのです。まだ、エウカシの不幸は続きます。あまり気持ちの良い話ではありませんが、彼の遺体は引きずり出され、切り刻まれてしまいました。彼の血は流れ、周辺を赤く染めてしまい、血で赤くなったところが「菟田の血原」と呼ばれるようになったと言われています。赤く染まった血原、この地域でとれた水銀との関係が考えられますが、このお話は、稿を改めることとします。「血原」伝承地

エウカシとオトウカシが本拠地としている菟田下県や穿邑のことは、前号で少しふれました。彼らは、現在の菟田野地域を中心に勢力を持っていたといえるでしょう。では、エウカシが建てたという「大殿」や彼の血が流れた「菟田の血原」は、どのあたりとすれば良いのでしょうか。実は、菟田野宇賀志に「ヲドノ」という小字があり、そこに「大殿」があったとされています。また、この下には宇賀志川が流れており、このあたりが「菟田の血原」だったと考えられています。この宇賀志川には、血原橋が架かり、その横には宇迦斯神を祭神とする宇賀神社が鎮座しています。室生地域にも血原という地名がありますが、ここは「茅原」に由来していると考えられています。宇賀神社

さて、神武天皇に味方したオトウカシ、天皇に仕えるしるしとして一行に御馳走を振る舞い、大宴会が催されました。ここで神武天皇は、「宇陀の城に罠(しぎわな)張(は)るが待つや(しぎ)は障(さや)らずすくはしじら障(さや)る妻(こなみ)が乞(なこ)はさば柧棱(たちそば)の(み)の無けくをきしひゑね妻(うはなり)が乞(なこ)はさば(いちさかき)(み)の多けくをきだひゑねやごしや(こ)は伊(い)能(の)碁(ご)布(ふ)曾(ぞ)。ああやごしや(こ)は嘲(あざ)咲(わら)ふぞ。」と歌いました(『古事記』)。

 

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菟田(宇陀)の高城

『日本書紀』にも「菟田の城(たかぎ)に鴫罠(しぎわな)張(は)るが待つや(しぎ)は障(さや)らずすくはし等(くじら)障(さや)り妻(こなみ)が乞(なこ)はさば柧麥(たちそば)の(み)の無けくを多聶(こきしひ)ゑね妻(うはなり)が乞(なこ)はさば賢木(いちさかき)(み)の多けくを多聶(こきしひ)ゑね」とあります。

記紀にあるこれら歌は、久米歌という歌で、久米部(くめべ)という軍事的な集団が戦いの前後の酒宴で歌った歌謡とされています。「菟田(宇陀)の高城」ではじまるこの歌は、「菟田の高城に鴫をとる罠を張って、俺が待っていると、鴫はかからず、クジラがかかった。(これは大猟だ。)古女房が獲物をくれと言ったら、痩せたソバの木のような中身の無い所をうんと削ってやれ。若女房が獲物をくれと言ったら、柃(いちさかき)のような中身の多いところをうんと削ってやれ。」という内容です。

この歌にある高城とは、時代劇に登場してくる近世(江戸時代)のお城のようなものではなく、もう少し簡単な構造の城なのでしょう。「菟田(宇陀)の高城」については、単に「高いところにある城」とする説と、実際の宇陀の地名に由来する説とがあります。後者は具体的には、菟田野佐倉の「高かき」という小字がある山頂、または榛原内牧にある高城岳を「菟田(宇陀)の高城」にあてる説です。地形や地理から考えると、菟田野佐倉の山を「菟田(宇陀)の高城」にあてるのが有力な説となっています。なお、この山頂には、「神武天皇御東征菟田高城」の石碑があります。これは明治32年(1899)に治外法権撤廃の改正条約の実施を記念して建てられたものです。「菟田の高城」伝承地

もうひとつ、この歌には不思議なものが登場してきます。「くぢら」(『古事記』)です。宇陀の高城で鴫をとる罠を張っていたところ、鳥ではなく、海にいるあのクジラがかかったというのです。実際、宇陀の山中にはクジラはいませんし、もし獲れてもどこに入れたら良いのでしょう。クジラとは、一体、どういうことなのでしょうか。これは、歌謡のひとつの手法で、戦いにおける大きな敵をクジラに例えているのです。鴫ではなく、意外なクジラにすることによって、人々を笑わせようとしたのでしょう。

オトウカシ主催の大宴会後の神武天皇らの行動は、『古事記』と『日本書紀』とでは、少し異なります。『古事記』では、いくつかの久米歌を載せ、短い物語となっていますが、『日本書紀』では詳しく書かれています。

 

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神武天皇、高倉山に登る

ここからは、『日本書紀』から、出来事を見ることとしましょう。

菟田の穿邑での大宴会の後、神武天皇は吉野川流域を巡り、この流域の有力者と出会い、そして再び宇陀へと戻ってきます。神武天皇は、「菟田の高倉(たかくら)山」に登ってこの地域の様子を山頂から眺めます。「国見(くにみ)丘(のおか)」には八十(やそ)梟帥(たける)という武力に優れた集団がおり、「女(め)坂(さか)」には女(めの)軍(いくさ)、「男(お)坂(さか)」には男(おの)軍(いくさ)という軍事グループが置かれていました。近くの「墨坂(すみさか)」には焃(おこし)炭(すみ)が置かれていました。焃炭とはどの様なものなのかは、はっきりしませんが、人が通れないように炭火をおこしていたのでしょうか。また、「磐余(いわれ)邑(むら)」には兄(え)磯城(しき)の軍が駐留していました。これらの様子を見て、神武天皇は「重要な道がすべて敵に押えられており、そこを通ることができないではないか。」などといい、たいへん憤慨したとのことです。では、これらの場所は、ど「高倉山」伝承地のあたりと考えればよいのでしょうか。

神武天皇が登ったという「高倉山」は、大宇陀守道と大東との間にある高倉山にあてる説が有力ですが、東吉野村の高見山とする説もあります。八十梟帥がいた「国見丘」には諸説がありますが、桜井市と宇陀市との境にそびえる山とも考えられています。「女坂」は桜井市粟原と宇陀市榛原笠間との境界周辺、「男坂」は大宇陀にある半坂(はんさか)(半坂峠)にあてる説があります。「男坂」が「ナンサカ」となり、やがて「ハンサカ」となったともいわれています。「墨坂」は榛原萩原にある坂、かつて墨坂神社が鎮座した場所の周辺と考えられており、現在も「墨坂」という地名が残っています。この「墨坂」や「墨坂神社」については、号を改めてご紹介することとしましょう。そして、もうひとつ、兄磯城の軍がいたという「磐余邑」は、一般に桜井市南西部から橿原市南東部の地域と考えられており、今も「磐余」という地名が残っています。また、一方では大宇陀岩室周辺にもこの伝承地があります。史跡宇陀松山城跡からの眺望

このように見ていくと、敵が押さえている場所は、宇陀と奈良盆地南部とを結ぶ交通の要衝ばかり、主要道が大半です。早く奈良盆地へと入りたい神武天皇にとっては、どの道も通ることができず、さぞかし悔しい思いをしたことでしょう。神武天皇は、この閉塞感を何とかできないかと祈りつつ、眠りにつきました。いく時か経った頃、夢に天神(あまつかみ)が出てきました。天神は「天(あまの)香(かぐ)山(やま)の社(やしろ)の中の土を取りて、天(あまの)平瓮(ひらか)八十枚(やそち)を造り、并(あわ)せて嚴瓮(いつへ)を造りて、天神(あまつやしろ)地祇(くにつやしろ)を敬ひ祭れ。亦(また)嚴(いつの)呪詛(かしり)をせよ。如(かくの)此(ごとく)せば、虜(あた)自(おの)づから平(む)き伏(したが)ひなむ。」というのです。

目覚めた神武天皇、この少々難解な天神(あまつかみ)のことばを実行しようとします。そこであのオトウカシの再登場です。オトウカシは、これからどんな活躍をするのでしょうか。

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オトウカシの活躍

神武天皇の夢のなかで天神(あまつかみ)は、「天香山(あまのかぐやま)(天香久山)の神社の土で平らな皿八十枚を造り、あわせて新酒を入れる聖なる瓶を造って、天神(あまつやしろ)地祇(くにつやしろ)を敬って祀れ。また、身を浄めて、相手に災いが及ぶようにと祈願せよ。そうすれば、敵は自ら降伏し従うであろう。」とおっしゃいました。時を同じくして、オトウカシは神武天皇に「倭国(やまとのくに)の磯城邑(しきのむら)に磯城の八十梟帥(やそたける)がおります。また、高尾張邑(たかおはりのむら)(葛城邑(かつらぎのむら))には赤銅(あかがね)の八十梟帥がおります。この連中は、皆、天皇と戦おうとしております。わたくしめは、密かに天皇のことを憂い申しあげます。今、まさに天香山の土で平らな皿を造って、天社国社(あまつやしろくにつやしろ)の神をお祀りください。その後に敵を攻撃していただければ、勝利するでしょう。」など進言しました。神武天皇は、「先の夢の言葉は、良い事がおこる前ぶれである。オトウカシの言うことを聞くに及んで、ますます嬉しく思う。」などと言い、上機嫌です。あの大宴会以降、オトウカシは神武天皇の側近となっていたのです。天香具山

さて、戦いに勝利するため、神武天皇は行動をおこします。椎根津彦(しいねつひこ)に粗末な服と蓑(笠(みの)かさ)を着せて老父(おきな)、またオトウカシに箕(み)を着せて老嫗(おみな)(老婆)の格好をさせ、天香山の土をこっそりと取りに行かせようとするのです。しかし、途中には、前号でご紹介したように、たくさんの敵が道を塞いでいます。このような状況で、宇陀と天香山(天香久山)との往復は可能なのでしょうか。何はともあれ、変装した二人の出発です。

二人が敵軍に到着した時、敵の兵士らは「なんと、醜い二人なんだ。」などと言って道をあけ、早々にここを通してしまいます。この変装のおかげで椎根津彦とオトウカシは、天香山の土を無事に神武天皇のもとへ持って帰ることができたのです。この土を見て、神武天皇は大喜びです。

しかし、この天香山の土には、どのような意味があるのでしょうか。実はこの山の土、強い呪力を有する土(埴土(はにつち))で、倭国(やまとのくに)支配の象徴であると考えられているからなのです。天下を治めたいカムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)、早速、この呪力がある天香山の土で天神(あまつかみ)やオトウカシのいう祭祀用の土器を造り、この土器を「丹生の川上」まで運んで天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を祀りました。ここで、神武天皇は神意を占います。

 

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神武天皇の即位

カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)は、次のように神意を占います。「私は平瓮(たいか)(壺の一種)で水無しに握り固めた飴(たがね)を造ろうと思います。もし飴が出来れば、武器を使わなくても天下を治めることが出来るでしょう。」と。そして飴は、自然に出来上がりました。また、次のように祈ります。「新酒を入れた土器を丹生の川に沈めようと思います。もし、大小の魚が全部酔って、浮き流れるようであれば、私は必ずこの国を治めることが出来るでしょう。もし、そうならなければ、事を成し遂げることは出来ないでしょう。」と。土器を投げ込んでしばらくすると、魚が浮き上がり、口をパクパク開いています。

椎根津彦(しいねつひこ)がその事を報告すると、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)は、大いに喜んで、丹生の川上のほとりにあった数多くの榊(さかき)を抜いて神々に捧げ、お祀りをしました。このときから、神々を祀るときには、榊を捧げ、御神酒などを入れる土器などが置かれるようになったということです。

さて、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の一行は、丹生川上で天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を祀った後、八十梟帥(やそたける)を国見丘に攻撃しました。戦いを優勢に進めてはいるのですが、少々、軍に疲れが見えてきました。そこでカムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)は、「楯並(たたな)めて那瑳(いなさ)の山の(こ)の間(ま)ゆも行き目守(まも)らひへばはや飢(え)ぬつ鳥飼が徒(とも)助(います)け来(こ)ね」と謡い、兵士たちの心を慰めました。少々、心細い内容ですが、「伊那瑳の山の木の間から相手を見守って戦ったので、腹が空いた。鵜飼の仲間よ、たった今、助けにきてくれ。」と謡ったのです。「伊那瑳の山」とは、榛原山路を中心にそびえる伊那佐山と考えられています。「穿邑」からこの伊那佐山が正面に見えます。熊野から吉野を経て宇陀へと入ってきたカムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)一行、まず目にしたのがこの伊那佐山であったことから、この謡にもなったのでしょう。宇賀志から見た伊那佐山

この後も戦いは繰り広げられ、多くの敵を滅し、ようやく国中を平定することができました。畝傍山東南の橿原宮で即位し、ついに「神武天皇」となることができたのです。

 

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菟田県主の誕生

天皇に即位して2年、神武天皇は、功績のあった者に褒美(論功(ろんこう)行賞(こうしょう))を与えます。『日本書紀』には、「弟猾(おとうかし)には、猛田邑(たけだのむら)を給ふ。因りて猛田県主(たけだのあがたぬし)とす。是菟田主水部(うだのもひとりら)が遠祖(とほつおや)なり。」とあります。神武天皇の側近として活躍したオトウカシには、猛田邑(たけだのむら)を与え、猛田県主(たけだのあがたぬし)としたのです。では、猛田とは、どこなのでしょうか。現在の橿原市内にあてる説もありますが、彼は宇陀から橿原へと引っ越しをしたのでしょうか。

本来、盂田邑(宇陀邑)、盂田県主(宇陀県主)であったものが、筆写の過程で「犭(けものへん)」が加えられ、「猛」となったと考えられています。オトウカシは、これまでの地盤も引き継ぎ、菟田(宇陀)県主に就任し、現在の菟田野、榛原、大宇陀の各地区を治めることとなったのです。「古代の宇陀市長」の誕生といったところでしょうか。

また、オトウカシは、菟田主水部(うだのもひとりべ)の先祖であったことが記されています。主水部とは、王権に水・氷を調達することを主な仕事としている集団で、特に夏の氷は、珍品として貴重なものでした。彼が本拠とした菟田(宇陀)には、氷室(氷や雪を貯蔵する冷温貯蔵施設)が残り、水の神様・宇太水分神社があります。このように菟田県主・オトウカシが主水部の先祖であったことを知る手がかりを今も見ることができます。「鳥見山霊畤」伝承地

神武天皇4年条には、「乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を号(なず)けて、上小野(かみつおの)の榛(はり)原(はら)、下小野(しもつおの)の榛(はり)原(はら)と曰(い)ふ。用(も)て皇祖(みおやの)天神(あまつかみ)を祭りたまふ」とあります。神武天皇は「敵に勝利し、国を平定、天皇に即位できたのは、皇祖の助けがあってこそ。」と感謝し、鳥見(とみ)山で皇祖天神を祀る行事を行いました。そして鳥見山の麓には、「上小野の榛原、下小野の榛原」というところがあるというのです。空から見た「菟田県」

鳥見山は、桜井市にある鳥見山とする説と宇陀市(榛原)にある鳥見山説とがあります。宇陀市の鳥見山の麓には、「榛原」という地名があり、「上小野の榛原」とは、玉立・小鹿野・西峠周辺、「下小野の榛原」とは、萩原周辺と考えられています。鳥見山と麓の地名との関係を考えると、宇陀市説が有力とは思いませんか。

神武天皇は、在位76年、寿127年で崩じ、畝傍山北東陵に葬られました。

 

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お問い合わせ

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