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天武天皇と宇陀

03_nihonshoki.jpg672年 6月、天智天皇の子「大友皇子」と天皇の実弟「大海人(おおあま)皇子」との間の皇位継承権をめぐる約1ヵ月に及ぶ内乱です。吉野宮の大海人皇子、草壁皇子、忍壁(おさかべ)皇子ら一行は、宇陀(菟田吾城(うだのあき)・甘羅村(かむらのむら)・菟田郡家(うだのこおりのみやけ))、伊賀、伊勢を経て美濃に入り東国を押さえ、別動隊は「飛鳥古京」を占拠、大友皇子の近江軍は苦戦しました。琵琶湖岸の戦いでも苦戦し、大友皇子の自殺によって、この乱は終息しました。大海人皇子は即位して天武天皇となり、以降、天皇を中心とする中央集権国家の基礎を建設しました。
その8年後の天武9年(680年)3月23日、天武天皇は菟田吾城に行幸しました。この行幸には、草壁皇子が同道していたことは、柿本人麻呂の万葉歌からも推測できます。この前年の天武8年(679年)5月5日には、天武天皇は、皇居、諸皇子を伴い、吉野宮へ行幸し、その結束を誓わせた有名な「吉野の盟(ちかい)」を行っています。最も有力な皇位継承者である草壁皇子に対し、自分たちの原点とも言える「壬申の乱」の日のことを思い起こさせ、決意を新たにさせる目的がこの菟田吾城への行幸に込められていたのではないでしょうか。このように阿騎野は、吉野とともに天武天皇や鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ、持統天皇)、草壁皇子と非常に関わりが深い場所であることがわかります。
壬申の乱の功臣のひとりである文祢麻呂(ふみのねまろ)は、慶雲4年(707年)に没し、火葬されました。この文祢麻呂の墳墓は宇陀市榛原八滝の山中に造られています。この地も壬申の乱の故地のひとつとなっています。

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