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更新日:2020年4月18日
中世から近世にかけての城跡です。中世に秋山氏が秋山城を築きますが、天正13年(1585)に豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)が大和郡山に入部により豊臣家配下の大名が城主となり、城は大規模に改修され、城下町も整備されました。
慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」後、豊臣家配下の大名に代わって福島高晴(たかはる・福島正則の弟)が城主となりました。福島高晴は、城を「松山城」と改名、さらに城の改修と城下町の整備を進めました。しかし、元和(げんな)元年(1615)に福島高晴が改易(かいえき)となり、城は破却(はきゃく・壊すこと)されてしまいました。この城を破却する役目は、小堀政一(こぼりまさかず/小堀遠州えんしゅう)らが担いました。
宇陀松山城の破却後、宇陀郡を領したのは織田信長の次男、信雄(のぶかつ)でした。信雄は織田家宇陀松山藩初代藩主となり、以降、2代高長、3代長頼、4代信武と続きました。元禄8年(1695)に織田家が丹波国柏原(かいばら)に移封された後、宇陀は幕府領となって明治を迎えることとなります。
宇陀松山城は、発掘調査によって本丸等の主な郭群を総石垣で、礎石建物群には大量の瓦が使用され、織豊系城郭の特徴を極めて良好に残すことが明らかとなっています。
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