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更新日:2012年2月28日

 宇陀松山城ゆめのあと

宇陀松山城跡 桐紋鬼瓦秋山城は、宇陀郡を代表する国人である秋山氏の本城として築かれ、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたと思われます。

天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山城入部により、秋山氏は伊賀に追放され、その後、豊臣家配下の諸将(伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種)の居城となり、関ヶ原の戦いの後は、福島孝治が入城しました。城には大規模な改修が加えられ、城下町の整備も進み、名を「松山」と改めました(宇陀松山城、松山町)。しかし、元和元年(1615年)に福島孝治が改易されたことで、城は破却を受け、城としての役割を終えました。この破却(城割役)を担ったのが小堀遠州と中坊左近秀政でした。

宇陀松山城跡 本丸御殿奈良県内では、宇陀松山城のほか、大和郡山城と高取城の三城体制で豊臣政権が大和国を支配していたことがわかり、宇陀松山城の重要性が再認識されるようになりました。平成18年には、国の史跡としての指定を受け、保存整備事業を進めています。

福島孝治の改易後、宇陀郡は織田信雄(信長の次男)・高長・長頼・信武の4代が80年にわたり織田宇陀松山藩として栄えました。当初、藩政の中心は長山丘陵付近に構えた長山屋敷でしたが、その後、寛文11年(1671年)に春日神社西側に向屋敷、貞享2年(1685年)に春日神社北側に上屋敷がそれぞれ造営され藩政の中心は移りました。織田家が元禄8年(1695年)に丹波国柏原に移封された後は、幕府領となりました。

宇陀松山まちなみ松山町は、城の破却後も江戸期を通じ地域経済の中心として繁栄し、宇陀紙や吉野葛といった周辺地域の特産物を販売するとともに、活発な経済活動を示す町家が数多く建てられ、「松山千軒」・「宇陀千軒」とも称されました。松山町は、近世城下における商家町から在郷町として発展し、近世から昭和前期までに建てられた意匠的に優れた町屋をはじめ土蔵や寺社などの建築群、石垣や水路などが一体となって歴史的風致を今日によく伝えていることから、国の重要伝統的建造物群の選定を受け、保存事業を進めています。

 宇陀松山まちなみ1松山西口関門

 

 

 

 

 

 

 

  宇陀松山観光案内ホームページ

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