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『古事記』『日本書紀』『万葉集』と宇陀市(中)

目次

崇神天皇と墨坂神

墨坂と墨坂神社

信濃の墨坂神

伊勢神宮創建前夜

菟田の筱幡(ささはた)

お伊勢さん誕生

ヤマトタケル

もうひとつの琴弾原

仁徳天皇

 


崇神天皇と墨坂神

ここからは、第10代天皇、崇神(すじん)天皇のお話です。記紀では、天皇は、磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)を宮居としたと伝えています。三輪山の周辺に宮居があったのでしょう。また、崇神天皇が即位して5年、大和国内には疫病が流行り、多くの人々が死に絶えたので、大いに歎き、悲しんだとあります。

崇神天皇6年には、宮中で祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神を他で祀ることとなります。天皇は、この二神の神威を畏(おそ)れ、宮の外で祀ることとしたのです。天照大神を皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、笠縫邑(かさぬいのむら)(現在の桜井市檜(ひ)原(ばら)神社)で祀らせることとしたのです。この天照大神と豊鍬入姫姫命のことについては、第11代天皇のお話のなかで、改めてご紹介することとしましょう。空から見た三輪山麓

さて、天皇が悲しんだ疫病は、というと・・・。同7年には、夢のお告げによって、大物主(おおものぬしの)神(かみ)(三輪山を御神体としている大神(おおみわ)神社の祭神)、倭大国魂)神((やまとのおおくにたまのかみ)(天理の大和(おおやまと)神社の祭神)を祀ったところ、疫病が収束に向かい、五穀豊穣になったとあります。また、同9年の3月のある夜には、天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。亦(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ。」というのです。天皇は、先の二神に続き、さっそく、墨坂神と大坂神に盾と矛を奉献(貢物)し、祀ったところ、疫病や災いが無くなりました。

その後、天皇は、近畿とその周辺までその勢力範囲を広げ、国を治めることとなったので、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と褒め称えられることともなったのです。この呼び方から崇神天皇が本来の初代王者であるとする説があります。

 

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墨坂と墨坂神社

崇神天皇は、夢のなかに出てきた神人の言うとおり、赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を奉献して墨坂神(すみさかのかみ)、黒盾八枚・黒矛八竿を奉献して大坂神(おおさかのかみ)を祀りました(崇神天皇9年)。これらの神を祀ったことによって、疫病が収まりました。

崇神天皇は、疫病などの悪いものが奈良盆地へ入って来ないようにするため、盆地東側の街道に墨坂神、盆地西側の街道に大坂神を祀ったのです。墨坂神には、赤盾・赤矛、大坂神には、黒盾・黒矛を奉献しましたが、この色の違いはどこからくるのでしょうか。東側は日の出、太陽が出てくる方向なので、「赤色」、西側は日没、太陽が沈む方向なので「黒色」としたとの考え方もあります。この色の違い、皆さんはどう思いますか。墨坂神社の旧社地「天ノ森」

墨坂神を祀ったところがのちの、墨坂神社(宇陀市榛原萩原)、大坂神ゆかりの神社は、大坂山口神社(香芝市)といわれています。墨坂神社・墨坂神は、もともと、西峠近くの「天ノ森」というところに祀られていましたが、室町時代の文安6年(1449)に現在の場所に移りました。「天ノ森」の近くには、現在も「墨坂」という地名が残っています。「墨坂」は、榛原の集落から見て「隅にある坂」であることから、「隅坂」と呼んだことに由来するとの説もあります。

現在の墨坂神社は、墨坂神を祭神としており、本殿は、一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)という構造となっています。この本殿は、春日大社本殿のひとつを元治(げんじ)元年(1864)に移築したものです。現在の春日大社本殿(国宝)より古いもので、墨坂神社の本殿は、春日大社本殿の先輩ともいえるでしょう。

墨坂神社の秋祭では、今の神社から元の社地へと「渡御行列」が行われています。大神輿へと移された御分霊が11月2日の夜に神社から旧社地の御旅所に赴き、そこで一晩を過ごしたのち、3日に御旅所から神社へと戻るというオワタリ祭りです。

さて、この墨坂ですが、神武天皇が宇陀で戦いを繰り広げたときに敵軍が「墨坂」に焃炭(おこしすみ)が置いて人が通れないように炭火をおこしていたところでもありました。また、壬申の乱(672年)においても墨坂で戦いが繰り広げられました。奈良盆地へと通じるこの墨坂は、古代から交通の要衝として重要な場所であったことから、幾度となく記紀に登場してきます。

 

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信濃の墨坂神

平安時代の史料、墨坂(須坂市墨坂)『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』という書物(法制書)には、「天応(てんおう)元年十月十四日墨坂神一戸信乃」と書かれており、奈良時代末の781年には、信乃(しなの)(信濃)に墨坂神の神領があったことがわかります。なぜ、信乃に神領があったのかは、詳しくはわかりませんが、神領があった所以で、ここには、「墨坂神」が祀られるようになります。

現在の長野県須坂市には、墨坂神を祀った墨坂神社が2社あります。ひとつは、須坂市墨坂にある墨坂神社、もうひとつは須坂市須坂にある墨坂神社です。この2社とも「7世紀中頃に大和国宇陀郡墨坂神社(須坂市須坂)の墨坂神社から墨坂神を遷祀したことにはじまる」と伝えられています。大和の墨坂神社の神領は、この辺りにあったのでしょう。ちなみに須坂(すざか)という地名は、「墨坂」に由来しているといわれています。少々、遠方ですが、後輩の墨坂神社も訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

話を大和国に戻すこととしましょう。

『日本書紀』に第21代天皇、雄略(ゆうりゃく)天皇が「三諸丘の神の形を見たいと思う」といった記載があります(雄略天皇7年7月3日条)。この後、続けて「此の山の神をば大物主神(おおものぬしのかみ)と為(い)ふといふ。或(ある)いは云(い)はく菟田の墨坂の神なりといふ。」と記されています墨坂神社(宇陀市榛原萩原)。ある伝えによると、大神(おおみわ)神社の祭神である大物主神は、墨坂神でもあるというのです。大物主神=墨坂神?これは、崇神(すじん)天皇が大和国内の疫病を鎮めるために大物主神や墨坂神を祀ったことが大きく関係しているのでしょう。

このように墨坂神を祀っている神社は、大和国と信濃国に鎮座しているのみで、他国には見当たりません。大和国の墨坂神は、現在は、「健康の神様」としても多くの人々の信仰を集める神様となっています。

 

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伊勢神宮創建前夜

御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と褒(ほ)め称(たた)えられる崇神天皇、『古事記』では168才、『日本書紀』では120歳で崩(ほう)じ、山辺道(やまのべのみちの)勾岡上陵(まがりのおかのえのみささぎ)に葬(ほうむ)られたとあります。次の第11代天皇には、崇神天皇の第3皇子が纏向珠城(まきむくたまき)宮で即位(そくい)し、垂仁(すいにん)天皇となりました。

ここからは、垂仁天皇の時代のお話ですが、少し、時を戻すこととしましょう。崇神天皇6年には、これまで宮中で祀(まつ)っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の二神の神威(しんい)を畏(おそ)れ、宮の外で祀ることとなりました。天照大神は、崇神天皇の皇女・豊鍬(とよすき)入姫命(いりひめのみこと)に託され、笠縫邑(かさぬいのむら)で祀ることとなったのです。伊勢神宮(内宮)の御稲御倉

そして、垂仁天皇の時代。『日本書紀』垂仁天皇3年3月条には、「天照大神を豊鍬入姫命より離ちまつりて、倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮(しず)め坐(ま)させむ処を求めて、菟田の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。さらに還りて近江国に入りて、東のかた美濃を廻りて伊勢国に至る。」とあります。

豊鍬入姫命に代わって倭姫命(垂仁天皇の皇女、豊鍬入姫命の姪)に天照大神が託され、祭祀を行うこととなりました。天照大神を託された倭姫命は、天照大神の新たな鎮座地を求めて倭笠縫邑を出発して、菟田の筱幡へとやってきます。その後、引き返して近江国に入り、美濃を廻って、最後に伊勢国へと至ったのです。

この倭姫命の旅には、具体的な地名として「倭笠縫邑」と「菟田の筱幡」、国名として近江、美濃、伊勢が登場します。天照大神が祀られていた笠縫邑(かさぬいのむら)は、現在の桜井市、三輪山のふもとにある檜原(ひばら)神社と考えられています。この檜原神社の境内には、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮も建立されています。また、西に続く檜原台地は、大和の国中を一望する絶好の地ともなっています。

さて、もうひとつの地名、「菟田の筱幡」は、菟田(宇陀)の一体どのあたりなのでしょうか。

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菟田の筱幡(ささはた)

倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の新たな鎮座地を求めて、菟田の筱幡(ささはた)へとやってきます。この菟田の筱幡は、現在の宇陀市榛原山辺三にあったと考えられています。この辺りには、古代から中世にかけて「篠幡荘」や「篠畑荘」といった荘園があったところで、その荘園の名前は、「筱幡」に由来しています。また、現在、ここには「篠畑(ささはた)神社」が鎮座しています。天照大神ゆかりの地として、この筱幡(篠幡)に神社が祀られることとなったのでしょう。現在の篠畑神社の本殿は、明治25年(1892)に伊勢神宮の社殿に倣(なら)って、神明造(しんめいづくり)としたものです。伊勢神宮に代表されるこの神明造は、古い神社建築様式のひとつで、弥生時代や古墳時代の高床式倉庫から発展したものと考えられています。篠畑神社

少々、話は変わりますが、この山辺三という地名の由来をご紹介しましょう。江戸時代、ここには山辺村、山辺中村、山辺西村という3つの村がありました。明治8年(1875)、これらの山辺にある3つの村が合併することとなり、新たな村の名称を山辺三村としました。これが現在の大字名となっています。

神社のお話にもどることとしましょう。天照大神ゆかりの神社は、この篠畑神社だけではありません。平安時代にできた書物、『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』には15社、鎌倉時代にできた書物、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』には26社が記録されています。阿貴(あき)宮、神戸(かんべ)大神宮とも呼ばれている阿紀(あき)神社(大宇陀迫間)がこれらの書物に登場してきます。『日本書紀』では数が少なかったゆかりの地が平安時代、鎌倉時代へと時代が過ぎるとともに多くなってきます。これは、何故なのでしょうか。

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お伊勢さん誕生

天照大神ゆかりの神社は、平安時代にできた書物、『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』、鎌倉時代にできた書物、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』には、篠畑神社だけではなく、阿紀(あき)神社が新たにこれらの書物に記録されています。

『皇太神宮儀式帳』では、天照大神は、倭姫命を御杖代(みつえしろ)として、美和の諸宮を発し、宇太の阿貴宮に坐して、そこから佐々波多宮(篠畑神社)に行ったとあります。この「宇太の阿貴宮」は、現在の阿紀神社とされています。『倭姫命世記』でも同様の記載となっています。『日本書紀』では数が少なかったゆかりの地(巡幸地)が時代とともに多くなってきます。

中世(鎌倉時代)に伊勢神宮ゆかりの地が増加している背景には、伊勢神宮の神領が各地に広がったことや御師(おんし)と呼ばれる神職が伊勢信仰を広めたことが影響していると思われ、『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世紀』にあるような新たな巡幸地が誕生してきます。ここに記載されている神社や場所は、一時的ですが天照大神が祀られたということから「元伊勢(もといせ)」とも呼ばれています。

宇陀郡にも伊勢神宮の神領があり、阿紀神社周辺では伊勢神宮の神戸(かんべ)があったことから神戸大神宮とも呼ばれています。寛永10年(1633)の社記によると阿紀神社は、天照大神の本地で、昔は宇陀郡一円が社領であったとしています。伊勢神宮の神領が多くあったことから、阿紀神社も巡幸地の仲間入りをすることとなったのです。

各地を巡り、伊勢国に至った際、天照大神が倭姫命に「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪歸(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ。」とおっしゃり、ようやく伊勢国に落ち着くこととなりました。「伊勢神宮(お伊勢さん)」、現在の皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)の誕生です。

壬申の乱(672)の際には、大海人(おおあま)皇子(のちの天武(てんむ)天皇)が朝明郡(あさけのこほり)の迹太(とほ)川(現在の三重県四日市市)から天照大神(伊勢神宮)を遥拝し、戦勝祈願をしました。また、天武天皇14年(685)には、式年遷宮制度が制定され、持統天皇4年(690)に第1回内宮式年遷宮が行われました。平成17年(2005)から第62回式年遷宮の各行事が行われ、平成25年(2013)には、遷宮祭の中核をなす祭儀・遷御(せんぎょ)が行われます。いよいよ式年遷宮のクライマックスです。

このように古代から祭祀が続く伊勢神宮。この機会に「うまし国伊勢」を訪ねてみませんか。

 

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ヤマトタケル

ここからは、第12代天皇・景行(けいこう)天皇の時代のお話です。記紀では、景行天皇の出来事の多くが皇子のヤマトタケル(『古事記』では、倭建命。『日本書紀』では日本武尊。)の物語で占められています。

ヤマトタケル、どこかで聞いたことのある名前ではないでしょうか。

このヤマトタケル、景行天皇の命令により、西国の有力者の討伐を行います。西国から帰るとすぐに、景行天皇は、東国の有力者の討伐を命じます。ヤマトタケルは、叔母の倭姫命を訪ね、「父・景行天皇は、私に早く死ねばいいと思っておられるのでしょうか。西国征伐が終わったばかりなのに、今度は東国を平定するようにとお命じになる。」などと言い、不遇を嘆きました。倭姫命は、ヤマトタケルに伊勢神宮にあった神剣・草那芸剣(くさなぎのつるぎ)などを与えました。この剣は、東国での戦いに大いに役立つこととなります。

ヤマトタケルは、疲れも癒えないまま東国へと向かい、現在の東海・関東・東北・中部地方を中心に戦いを繰り広げ、各地を平定していきます。東征の帰途、伊吹山(現在の岐阜・滋賀県境)の神を倒そうとしますが、これが原因で病気となり、彼は、能褒野(のぼの)(現在の三重県亀山市)で亡くなってしまいます。ヤマトタケルは能褒野に葬られますが、彼は白鳥となって大和を目指して飛び、その後、河内へと至ったとあります(『日本書紀』)。白鳥の飛行ルートは、能褒野→大和琴弾原(ことひきのはら)(御所市)→河内古市(羽曳野市)とされており、現在、この3箇所にはヤマトタケルの陵墓が造られています。白鳥神社

室生三本松には、琴弾原と似た地名、琴引(ことひき)と呼ばれているところがあり、この近くには、ヤマトタケルを祭神としている白鳥神社があります。この神社には、能褒野で亡くなったヤマトタケルが白鳥となって飛来してきたという伝承があります。ヤマトタケル・白鳥伝説は、各地に残されていますが、室生三本松は、伊勢と大和とを結ぶ道沿いにあることから、このような伝承が生まれたのでしょう。

 

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もうひとつの琴弾原

ヤマトタケルは能褒野(のぼの)(現在の三重県亀山市)で亡くなり、ここに葬られます。『日本書紀』によると、彼は白鳥となって大和を目指して飛び、その後、河内へと至ったとあります。白鳥の飛行ルートは、能褒野→大和琴弾(ことひき)原(のはら)(御所市)→河内古市(羽曳野市)とされており、現在、この3箇所にはヤマトタケルの陵(お墓)が造られていることもご紹介しました。

実は、宇陀市内にも琴弾原(コトヒキガハラ)という所があります。ここにでは「ヤマトタケルが葬られた能褒野の陵から一羽の白鳥が飛出し、大和を目指して飛び去った。この現象を不思議に思って、陵の棺を開けるとヤマトタケルの遺体はなく、棺は空っぽとなっていた。能褒野を飛び立った白鳥は、大和の琴弾原にしばらく留まり、その後、河内の古市へと至り、遂に天上へと飛び登り消えてしまったという。琴弾原と古市にも陵が造られ、その霊を祀った。大和の琴弾原とは当地のことで、ここにヤマトタケルを祀る祠を置いた。」と伝えられています。この祠とは、大宇陀山口に鎮座する白鳥(しらとり)居(い)神社のことで、ヤマトタケル、父の景行天皇(12代天皇)、子の仲哀天皇(14代天皇)を祭神としています。この神社の祭祀は、大宇陀山口と大宇陀白鳥居の方々によって行われています。

白い鳥が来たところ、白鳥伝説にちなんだ神社であることから、白鳥居神社と呼ばれることとなったのでしょう。また、大宇陀白鳥居は、この白鳥居神社の社名によった地名といわれています。なお、大宇陀山口には、室町時代に「山口荘」という興福寺の荘園があり、大宇陀白鳥居には、鎌倉時代に「白鳥居荘(白鳥荘)」という多武峰寺の荘園がありました。

亀山から宇陀(室生、大宇陀)、御所、古市へと白鳥伝説をたどってみませんか。

 

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仁徳天皇

ここからは、第16代天皇・仁徳(にんとく)天皇のお話です。天皇の系譜は、景行(けいこう)天皇、成務(せいむ)天皇、仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇と続きます。父応神天皇の死後、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子(皇太子)とが皇位を3年間も譲り合いましたが、皇太子が亡くなったことによって兄の大鷦鷯尊が即位し、仁徳天皇となります。難波高津宮(なにわのたかつのみや)(現在の大阪市中央区)を都とし、磐之媛命(いわのひめのみこと)を皇后としました。

仁徳天皇には、次のような逸話があります。

仁徳天皇四年、天皇が難波高津宮から遠くを見渡したときに「人々の家のカマドから煙(炊煙)が立ち上らないのは、貧しくて炊くものがないからではないか。都がこうだから、地方は更にひどいことであろう。」とおっしゃり、3年間、免税としました。それからというものは、天皇は衣服を新調せず、宮殿の一部が壊れても修理もしませんでした。3年が経って再び見渡した時には、家々からは炊煙が上っていましたが、さらに3年間、免税が続きました。6年の歳月が過ぎ、人々が裕福になってきたところでようやく税を課し、宮殿の修理をすることとなったのです。人々は、免税のお返しとばかりに積極的に宮殿の修理に携わり、短時間で宮殿の修理を終えることができました。

この逸話にあるように仁徳天皇は、人々を思いやる良い政治を行ったことで知られ、聖帝とも称されました。しかし、この仁徳天皇、実は多情という側面もあり、皇后の激しい嫉妬に悩まされるといった人間臭い一面も『記紀』には、描かれています。

皇后の磐之媛命は、「甚多(いとまね)く嫉妬(ねた)みたまひき」(『古事記』)という記述があるように、非常に嫉妬深い人物として描かれています。

多情な仁徳天皇と妬(ねた)み深い磐之媛命、事件は宇陀でも発生しています。さて、その顛末は・・・。

 

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